人が人でなくなる「戦争」に、二度と自治体職員は協力しない!元大阪市職員 治部康利さん(94歳)に戦争体験を聞く
自治体職員も工兵として徴用
1938年(昭13)に「国家総動員法」ができ、戦争のために国が人も物も、お金も思うように動かせるようになりました。18歳で大阪市に建築技術者として就職した私も、翌年に軍の施設の設計や工事監督のために徴用されました。兵隊検査を受けて「工兵」としての兵種を宣告され、年明けには入隊することが決まっていました。その年の暮れに太平洋戦争開戦のラジオ放送を聞き、「いよいよアカンなー」「命定まれりやなー」と思いました。その当時は「お上の言うことは正しい」と教育が身にしみていて、時の政治を批判するということは当時は頭に浮かびませんでした。
度胸ためしで中国人捕虜を打ち殺せと命令
最低3ヶ月間、初任兵教育がありました。一定期間が過ぎると教育検閲があり、防毒マスクだけでも息苦しいのに、炎天下で壕を掘り続けました。日射病になり倒れて、兵舎の土間に転がされて水をかけられて、ようやく気が付きました。日射病で倒れた者は20数名いましたが、そのうち一人は死んでしまいました。私は弱兵の模範だと言われ、師団司令部に出向することになり、陣中日誌を複写、機密文書の管理をする任務に就きました。おかげで人殺しもせず、鉄砲を打つこともせずにすみました。
教育を修了した部隊は中国の徐州に占領警備の任につき、中国軍が農作物の収穫を取りに来るという知らせを受け討伐に出かけました。捕虜にした中国兵を度胸ためしとして、銃剣で刺し殺すことを命令され、どうしてもできなかった神戸出身の兵隊が、兵舎に帰ってから、上官の命令に逆らったと繰り返し制裁を受け、不寝番の時に自分の銃で自殺をしたと聞きました。
「(食糧を)送る手段がない、敢闘を祈る」
日本軍はだんだん追い詰められていき、「助けに行かないが、最後まで闘え」と1943年(昭18) 10月、いよいよ南方(ニューブリテン島)に行かされました。司令部のあったラバウルからは病院船「ぶえのすあいれす丸」が停泊し、負傷兵や看護婦、従軍慰安婦を乗せていると聞きました。国が関与しなかったら、こんなところに慰安所などできるわけがありません。
そこから島の西端の第一線に送られて行くのですが、駆逐艦に分乗し、月の出ていない闇夜に紛れて運ばれました。武器や弾薬も2カ月半分ぐらいしか積めず、一日2食に減らしてもすぐに食料は尽き始めました。司令部に「食料や弾薬を送ってくれ」と頼むが、「送る手段がない、敢闘を祈る」と無線で返事が届きました。師団長は、軍医に死に場所を探しに行かせました。
ニューブリテン島のジャングルは地獄だった
1944年4月にようやく転進(退却)命令が出て、高野豆腐5枚と米5合をもらって退却が始まりました。
しかし5日から1週間もすると、食料は尽きてしまい、一緒に歩いていた者も、木陰でもたれて眠り、朝になると死んでいました。途端に大きな蠅が真っ黒になるぐらいにたかり、ウジ虫が口や目から出入りしていました。屍体の臭いは何とも言えず臭く、ジャングルにこもっていました。死んだ兵隊の持物から食べ物を探し、屍体から靴を剥がして履きました。マラリアにかかり高熱で脳が侵され、「日本から迎えの船が来た」と叫んで逆走する兵隊もいました。ガマガエル、カタツムリ、里芋の大きな葉っぱの軸、背丈ほどもあるワラビの皮をめくって、生のまま食べました。疑似赤痢にかかり、下痢はしっぱなし、途中で川があれば洗って、濡れた服をそのまま着ていました。
100日ぐらいそういう生活をして、ようやく生き延びてラバウルにたどり着きましたが、座ると尾てい骨の骨が当たって痛いほど、痩せて骨と皮の状態になっていました。熱帯潰瘍になり足の肉が腐っていき、ズキズキ痛んでいました。そのまま野戦病院に入れられたのですが、治療の薬も麻酔もなく、ただただ腐った肉を削り落しリバーノール液をつけて治療は終わりでした。
ラバウルで終戦の知らせを聞いた時は「これで誰かの命令で死ぬことはない」とほっとしました。豪州軍の捕虜収容所に入りましたが、鉄条網で囲まれた檻の中に「人肉を食べたため、戦争犯罪人として捕まっている」という兵隊が入れられていました。
本当に地獄でした。戦争は人が人でなくなります。
「平和」のための戦争はない!
安倍政権が強行採決した戦争法案は憲法違反であることはもとより、安保条約にも違反しています。安倍首相は平和のための戦争だといいますが、当時も「東洋平和のためならば、なんで命が惜しかろ」と歌わされて、多くの若者が死んでいきました。日本が中国で引き起こした戦争に対して、経済制裁を受けて始めた戦争でした。「平和」のための戦争なんてありません。また日本と戦場を結ぶ兵站線のどこにも安全なところはないということも歴史が証明しています。安倍政権は歴史を正しく見ないといけません。
二度と自治体職員は戦争の手助けはしない!
自治体や自治体職員は、今でも「有事法制」において、様々な役割が課せられています。今回の「戦争法」が成立し、集団的自衛権が行使されれば、これまでは具体化することがなかった自治体や自治体職員へ、戦争への協力が求められることになります。先の戦争で行われたように、医師や看護師だけでなく、技術者や運転手なども徴用されることになります。二度と自治体職員は戦争に協力しないと決意を固めあいましょう。
人が でなくなる「戦争」に、二度と自治体職員は協力しない!元大阪市職員 治部康利さん(94歳)に戦争体験を聞く
【 大阪市労組 第445号-2015年7月28日号より 】
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